朝から晩まで、丸一日、食事を与えられなかった。
ついに処分でもされるのかと、しかし何もすることがなく、部屋の中をウロウロウロウロとしていれば、夜中、憔悴しきった白服がやってきた。
「すまんな…、…忘れてたわけじゃないんだが…」
テーブルの上に、食事ののせられたトレーを置く彼の声は掠れている。そして、いつもはピシリと身に着けている白いスーツがよれていた。
そんなことを、彼女が許すはずもないというのに。
「…何かあったのか?」
だから、つい、そう聞いた。
ただ深い沈黙は、”何かあった”ことを示すのには充分で。
「……わ…、…あいつに何かあったのか?」
名前を呼ぼうとして、止める。白服の前で彼女を呼び捨てする気にはなれないし、かといって敬称などつけたくもなく。
しかし、
問う声音に、滲む、偽りない、気遣いに、問われた白服だけは、気付き、平山へと視線を投げる。
白服の顔に、あるかなしかの微苦笑が滲んだ。
「今、寝込まれている。少なくとも…当分は…此処へは来られないだろう」
それは、本来ならば平山に与えなくても良い情報だった。それでも、教えてやったのは、いま平山が浮かべている表情の所為。
安堵しても良いだろう、台詞に、ただ、心配そうに眉を顰めた表情の所為。
幾人も、幾人も、囚われ人をつくる主。
その主が、(恐らく初めて)囚われた。
赤木しげるという、悪魔に。
次に、白服以外がそのドアを開けたのは、実に一ヶ月ぶりのことだった。
「…っ!!」
足音が、2つ、以上。
そのうち1つはとても小さく、なおかつカツリコツリと硬質な音をたてていた。彼女がいつも携えている杖の音だ。
伏せている、ということしか教えては貰えなかった。
彼女の年齢を考えれば、想像も予測も不吉なものしか浮かばない。慌てて、ドアに歩み寄った平山は、自分と同じ高さの鋭い双眸に、捕らえられた。
「………あ、か…っ…」
2度と会うようなことも、ないと。
そう思っていた。
ホンモノ。
アカギは、平山の姿を確認すると、そのまま室内へと入ってくる。その後から、女帝も。白服が通路側からドアを閉め、かちり、小さな音がした。
「安岡さんが探してた」
「………っは…?」
言葉が、端的過ぎて、わからない。
それよりも、何故、此処にアカギがいるのかが…。
もしや、アカギもあの麻雀を打ったのか。打って、そうして、負けた、のか。そうして、この部屋に。
「は…っ、ははははは…、…なんだよ…、オマエも… ははは!! オマエもか…っ」
笑い出した平山を、アカギは僅かに不思議そうに眺めている。
「はは…っ、…ははは…」
徐々に、更に、歪んでくる平山の唇、顔を、冷やかに見上げていた女帝は頬を歪めて舌打ちした。
「煩い」
「は………」
「…アカギは、貴様をあの腐れ刑事が探しているといって、私(わたくし)に貴様の行方を聞いたのだ」
ききたくない。
ききたくない。
「腐れ刑事には借りがあるとぬかしおった。…此処でのことを口外せんと、貴様が承諾すれば…」
「や め て く、れ!!」
絶叫する。
その先を、言わないで欲しい。
本当は最初から違和感があったから。
ドアを開けたのはアカギ、先に入ってきたのもアカギ。女帝は後から、入ってきた。白服ならばそれは許されない、否、他の何人たりとも許されないだろう、女帝を先に入室させてから、後から続くはずだ。
「聞きたくない!」
「…此処から出してやると」
「アカギがあんたに頼んだからか?!」
喉が裂けそうだった。大きな声と、絶望に。
言わないで、どうか言わないで、アカギの願いだから叶えてやるのだと、そんな言葉は聞きたくない。あんたは誰も認めない、誰も触れられない王者じゃないか、それなのに、よりにもよってこの男に。
涙を溢れさせる平山を、相変わらず冷めた視線で見上げていた女帝は、唇を歪めて笑った。
「そうじゃ」
「……っ~~~~~!!!」
我知らず伸ばした手が、女帝の襟首を掴む。
「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ!!! アカギ…が…っ、アカギに…っ!!!」
あんたまで、アカギに奪われるのか。
錯乱する平山の手首が掴まれた。
「……ぐ…!」
底冷えする硬質な眼差しが平山を射抜いていた。赤い、双眸。
「……」
離せと。視線で促される。
手首を捉えているアカギの手、そこに込められている力は半端なものではなかった。血の流れを止められたのかと思うほどに。
それでも、平山は手を離さなかった。離したらそこで終わりだと思った。離さなくても、と、ちらりと思ったが、その先は考えずにおいた。
「……平山」
小さく、女帝が唇を動かした。名前を呼ばれたのは酷く久し振りだった。卓についていたとき、何度か呼ばれたくらいなので。
動揺に、強張る。
女帝はゆるゆると平山と視線を絡ませ、唇を吊り上げた。
「私の、言うことが聞けんのか? 平山」
「………ぅ、…っ」
「んん? 聞けんのか。私を失望させたいか」
「……ッツ!!」
嘘吐き。
そもそも、誰にも期待などしていないくせに。
しかし、するりと、平山の手は襟首から滑り落ちる。同時に、アカギも手を離す。かくりと平山は膝をつき、女帝は今日、この部屋で初めて、くつくつと満足げに哂った。
「アカギが妬ましいか」
「……」
「私を動かすことが出来るのは、赤木しげる、この男だけ。…アカギが妬ましいか?」
潰れた嗚咽だけが小さく続く。
女帝は顔を歪めて笑っている。平山の視線は床に落ちている。
「…アカギになりたいか」
くふくふと、笑いながら狂女が問うた。
まったく、その様は狂いそのものであったのだが、理知の光を確かに双眸に宿している。まるで砂漠で謎解きを仕掛け、答えを間違えば相手を食い殺すというあの神獣のようではないかと、常の平山ならば思ったろう。
「………」
「…アカギに、なりたいか?」
ゆっくり、問う。
扉を隔てて室内の会話を聞いていた白服が、眉を顰める。
主は、愚鈍な者を何より嫌う。
だから、故意に、まちがった答を引き出させようと、する。
それに気付け、なければ
「…なりたい。…アカギに、…っ、アカギだったら、アカギなら…っ」
叫んだ平山に、扉の向こう側、サングラスの下の瞼を伏せる。
女帝は、甲高く笑い出した。
「ククク…キキキ…くかかかか…っ、……なれん、そんな男は赤木しげるにはなれん……! 他人に焦がれるあまり己を認めることもせん男…っ、それでは無理…っ!」
長い上着を翻し、女帝が背を向ける。
「待、…ッ」
顎を、しゃくる。アカギが、促されるまま扉を開けた。
「待って、…待ってくれ…、……嫌だ、………あんたが欲しい!」
僅かばかり、アカギが目を細め
女帝が顔半分振り返る。
「…ほう?」
「離れるのは嫌だ…、前、言ったよな、あんたは毒なんだって、…それにトチ狂うんだって…。…なんでもいい、俺はそれが欲しい…」
「……くふ」
「…くふふ、くぅ、くぅ…くふふふふ…」
「ぅふふ、ふふっ…、…くくく…我が愚兄よりは、随分マシか。…よい、良い…」
笑う、哂う。
艶かしい声は、その場の全員の耳をぬるぬると擽った。
骨張った指が伸ばされ、白服の、スーツの内ポケットをまさぐる。他意などまったく挟んでいないその指に何の反応も返さない為に、彼は拳を白くなるほど握り締めなければならなかった。
するりと、取り出されたのは小型のナイフ。
女帝は、なんということか、床へと膝をつくと、平山へとそれを握り込ませる。
「よかろう。一瞬の私をくれてやる。くうふふふ…さあ、私に貴様の決意を見せてみろ、…貴様は私が欲しいのじゃろう?」
そう、言って、平山の両頬を両手で包む。
眼前が、女帝の喜悦の笑みで埋まる。
「……ああ」
そうか、やっぱりこの女は頭が良いなと、そんなことを思いながら、平山は手にしたナイフで己が両目をかっ切った。
アカギは先ほどから不機嫌だ。
だが、女帝も折れる気など更々無い。アレは己の玩具。それを、どう廃棄するかは己が決める。
「…アンタ、まだ血の匂いがする」
「そうか」
血抜きの遊戯は行っても、女帝は血液自体を好んでいるわけではない。顔面から胸元にたっぷり浴びた血糊は、風呂で念入りに洗い落とした。
「俺の血浴びるか?」
「…くくく、いらぬわ馬鹿者」
アカギの手が、女帝の頬を包み
狂人たちは、戯れる。
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