エメラルドの眼鏡を掛けて

死にネタ・捏造注意

告げられた数値は、老人の致死量を遥かに越えていた。
紙のように白くなった顔、その、色素の薄い目は、真っ直ぐにアカギに向いていた。
アカギもまた、真っ直ぐに老人の目を見据えている。
「………クハッ…」
徐々に、老人の顔が歪んだ。
笑みに。
遂に狂ったか。傍観を強いられていた暴力団組長はそう思い、狂人が最期に、物理的な悪足掻きをしないかとアカギに目配せしたが、緩く首を横に振られた。
「くくくくくははははははは」
誰も音を発しない、発することが出来ない。
白服の男たちは、呆然自失といった風情で笑う老人を見守った。
「クク…、ククク」
老人は、腕に刺さった注射針を無造作に引き抜きながら立ち上がる。
「わっ…鷲巣さ、ま…！」
「わしの命はわしのものじゃ」
それはアカギに向けられている。アカギは、薄く笑って肯定した。
老人も、ク、と喉で笑った。
白服たちだけには判った。それは随分と久し振りに見る、老人の正気の笑みだった。何故、今。今更。
「わかっておるならば、よい」
ガン。
椅子を蹴り、老人は彼らへと背を向けて、ドアを開く。その体が廊下へ出て、ドアが閉められ、暫くしてから室内は動き出した。
「鷲巣様ッ！！」
白服たちがまず、一斉に追う。
「おい、アカギ…」
困惑は、アカギに向けられる。
アカギも、老人と同じく、腕から注射針を引き抜いた。
「…金を持って出よう、仰木さん、安岡さん」
「え？！」
煙草に火をつけて、咥える。
「でないと、鷲巣の支払いを確認できない」
「…はあ？」
促され、黒服に金を運ばせることにして部屋を出る。
アカギは迷わず玄関を目指した。
「おい、いいのかアカギ…」
「何が？」
「何がって、オマエ」
金は既に手に入れた。”何が”と問われると、困る。正直なところ、金が手に入り生きて堂々此処から出られるならばそれでいい。
「……おい」
安岡が、目配せする。
廊下の奥、一室からきな臭い匂いが漂っていた。
異様なのは、その部屋の前、身じろぎもせずに整列する白服の男たち。
言葉を、零し損ね、結局安岡と仰木は唾液だけを飲み込んだ。アカギだけは、それを横目で一瞥し、スタスタと玄関ホールへ向かう。
早足にそれに続き、屋敷から数歩離れる。奇妙な悪寒からやっと抜け出せたと屋敷を振り返り、2人は目を見張った。
赤い、赤い、血のような炎が、屋敷の一室に満ちている。
「…ぉ……っ」
異様、なのは
３人が屋敷から出てから、誰もそこから出てこようとしないこと。アカギを除いた2人は、全身に鳥肌を纏い凍りついた。
「…なん、て…」
白服たちは、後を追うのだ。勝者に己が死を見せることを厭うた破れた王を追従するのだ。
次第に煙を立ち上らせる屋敷から目を離そうとすると、真っ直ぐなアカギの双眸に貫かれた。
「見なくちゃ、仰木さんも安岡さんも。金だけじゃない、あれだって鷲巣の支払いなんだぜ」
「ぐ…っ」
におい、が。
焦げた匂いが、微かに聞こえる気がする鷲巣の笑い声が、精神の奥へとこびり付きそうで、2人は苦渋に顔を歪ませた。ただアカギだけは涼しい顔で、否、むしろ、満足げに、老王の支払いを受け止めていた。
「…狂ってる…っ」
笑う敗者にか、見守る勝者にか、どちらに掛けられたかも判らない言葉だけが、ばちばちと弾ける炎の音の中へと掻き消された。